「われらの子ども」を読みました。教育格差の拡大についての所感




こんにちは、うさぎです。

金銭的に厳しい状況で育ってきた経緯があり、教育格差の問題については結構思うところがあるのです。

そんな中こちらのブログで見つけた「われらの子ども」という本が気になったので、読んでみました。

「われらの子ども(原題:OUR KIDS The American Dream in Crisis)」はアメリカの人文科学者であるパットナム氏の著作です。

米国での教育格差の拡大について書かれた本で、高学歴家庭に育った子どもと低学歴家庭に育った子ども、及びその親へのインタビューを中心に、両者の現在が対比的に描かれています。(※本書における高学歴家庭とは、両親が大学卒であることを指し、極端なエリート家庭ではなく一般的な中~上流の生活をしている人を指しているように思います。)

20人弱の人物、それぞれのライフヒストリーを主軸に、定量データが組み合わされて話が展開され、かなりの読み応えがあります。

印象に残っていること

・1950年代の若者は経済成長によって、全員が昇りエレベーターに乗っていたようなものであり、現在と比べて親世代より上方に移動することが容易であった。地域コミュニティ内にも「われらの子ども」として子供を育てる風潮があり、様々な支援をしてくれる大人が周囲にいた。

・現在では良い環境、良い学校を求めて、居住区域の分離が進んでいる。いかに自分の子どもの教育に投じるかという部分に親は力を割いていて、「われらの子ども」という意識は失われている。

・豊かな家庭の親は、子供の学校に積極的に関与することを誇りに思い、時間という労力をかなり割いている(おそらく日本では「過保護」と言われるレベルで)

・豊かな家庭においては、子どもの興味を引き出して伸ばす、勤労観を鍛える等の支援的な育児をしている。貧困家庭においては、抑圧的な育児が行われることも多い(時間的な余裕のなさや、周囲の危険から身を守るためには行動の抑制が有効であることから)

・貧困家庭においては、親の仕事はパートタイムであることが多く、仕事を休んだり抜けたりすることが直接賃金に関わることが多い。そのため、学校活動や課外活動に積極的に関わることが出来ない。

・豊かな家庭の周りには安心できる環境、親切な近所の人々、頼れる親戚、親の豊かな人脈など数々のセーフティーネットが張り巡らされている。一方、貧しい家庭の周りには、親の離婚、ドラッグ、悪い友達など落とし穴だらけ。

・親の持つ資産というインフォーマルな保証により、子どもはリスクをとって行動することが出来る。一方、保証がなければ出来ることは限定され、目の前の状況に必死でしがみつくしかない。

・豊かな家庭の子どもには父母の他に4人の祖父母という資源もある(祖父母も往々にしてそれなりの資産を持っている)。一方貧困家庭では両親が離婚し、保護者が1人になってしまうことが多く、祖父母がいても人的資源の提供しか出来ないことも多い。

日本はまだ米国ほど教育格差が開いていないと思いますが、親がどれほど教育に力を割けるかによって、差が開く世の中になりつつあることはひしひしと感じています。

子育てには経済的安定と時間的余裕の両方が必要か

アメリカの豊かな親というと、産後は2ヶ月で復帰、子供はベビーシッターにおまかせしてバリバリ働くというようなイメージを持っていたけれども、豊かな家庭ほど、「子どもの学校に何度も足を運び先生に質問をする」「送迎の大変さは厭わず、課外活動に積極的に参加させる」などと子どもに時間を割いている印象を受けました。

子どもを自由させながらもよく観察し、よいところを伸ばす、対話を中心に手厚く支援をする、「子どもを主とした育児」というのは時間や手間のかかる方法で、それなりの時間的余裕がないと出来ないことです。

そう考えると父親が家族全員を養えるだけのお金を一人で稼ぎ、妻が専業主婦として子供のあれこれを支援するという体制は、ある意味結構贅沢な形態だったのだと改めて思います。

「何かしたい」と親に言える自由があるか

単なる金銭的問題以上に深刻だと思うのが「機会の不平等」です。

子どもの興味に応えて、塾、習い事、課外活動をするとあらゆる部分でお金がかかります。

安定した家庭でそれなりの資源を投下されて育つ子供は、習い事で芽を出すかもしれないし、部活で活躍するかもしれない。

留学に行って新しい価値観を知って帰ってくるかもしれない。

たとえ活躍出来なくても、何かに取り組んだことは大きな経験になります。

しかし、貧困家庭で育った経験からすると、お金をかけずに過ごすには「何もしない」のが一番。

何かしたいことがあっても親の迷惑にならないように、「やってみたい」と口には出さないでおく。

自分の「やりたい気持ち」を封印するのに慣れすぎてしまうのです。

私がこの不利さに気づいたのは就職活動の時でした。

それまでのペーパーテストの世界でなら、貧乏でも平等に戦えました。

でも急に評価軸の変わる就職活動の場では「お勉強いっぱいしました」「ペーパーの点数はいいです」じゃだめなのです。

金策に苦労しながら、どうにかこの場所に辿りついた身の上話は無価値。

めちゃくちゃな設定ですが、「部活動を粘り強く頑張り、チームの中でリーダー的役割を果たしながら活躍し、明るく素直な性格で、数学オリンピックに出場して、留学経験有、英語堪能」みたいな人の方が世の中には求められるのです。

もちろんスタート地点が悪くても頑張れる人は沢山います、その壁を越えて活躍する人も沢山います。

頑張れなかったのは自分がだめなせいだろ、という意見も当然あるかと思いますが、親からの様々な投資によって「経験」を手に入れられる子どもと、自分の努力だけで壁を越えていかなきゃいけない子どもの差は大きく、本人の資質のせいにするには残酷な差だと思っています。

経済的投資でだけでなく、「こんなのがあるからやってみたら?」という提案、子どもがちょっとづつ背伸び出来るような環境作り、どれも恵まれた家庭には当然のようにあるかもしれないけれど、ない家庭も無数にあるのです。

セーフティーネットの有無

本書の中で一番ぐさっと来たのが 「親の持つ資産というインフォーマルな保証により、子どもはリスクをとって行動することが出来る。一方、保証がなければ出来ることは限定され、目の前の状況に必死でしがみつくしかない。」といった部分です。

チャレンジが大切だと言われていますが、チャレンジの前には必ずリスクを取る必要があり、自前でセーフティーネットを準備出来ない子どもにとっては「親のセーフティーネット」が必要なのです。

私は受験料&入学金を最小化するため、指定校推薦という安直な方法で大学に入っていますが、本当は理系に行きたかった。

理系科目は苦手だったけれど、「浪人してもいいよ。私立になっちゃってもどうにかするから自分のやりたいことをしなさい」というセーフティーネットがあれば、確実に理系を目指していました。

また、就職活動の時もセーフティーネットがある人はいいなと、人を羨ましく思った記憶があります。

リーマンショックの年の就活で、前年までと比べてかなり就職状況は悪化していました。

就職先がなかなか決まらない組もちょくちょくいたのですが、最終的に「留学に行く」「院に行く」という選択をした人達がいました。

大学まではペーパーの点数だけでもなんとか上昇してこれたけれども、いいおうちに生まれると上手くいかなくてもどうにか壁を越えられるんだと思った瞬間でした。

セーフティーネットのない私は、就職活動を続ける以外の選択肢はありませんでした。

適切な勤労観の形成

私の母は腰掛OL2年のあとずっと専業主婦、離婚後パート勤務を始めたものの「ずっと専業主婦でいたかった。女が働かなきゃいけないなんて恥ずかしい。仕事なんて大嫌い」としか言っていなかったので、私の中にも仕事=嫌なものという意識が形成されていきました。

母は仕事が嫌いが故、週20時間しか働いていなかったので、逆に専業主婦的な過保護気味なケアは存分に受けてこれたのですけどね。

祖父は若くして亡くなっており、同居の祖母も一度も働いたことのない人でした。

どのような勤労観を持つ大人に囲まれて育つかというのは、恐ろしい程子供の人生に影響を及ぼすと思います。

親がきちんと働いていれば、自分は将来このように働くのかとイメージすることも容易でしょうし、親から仕事のあれこれについて話を聞いて明確なビジョンを持つことも可能でしょう。

親が社会的に地位の高く収入も良い仕事に就くことの意味を知っていれば、子どももそのような方向を目指すようになるかもしれません。

子どもが迷った時(例えば、どのバイトしようかな~とか些細なことでも)、将来社会人になるにあたって役立つスキルを得られそうなものを提案し、子どもが経験を積む助けをしてあげられるかもしれません。

就職活動においても、業界の将来性、会社に関する知識を総動員し、子どもの希望や能力を鑑みて、ここも受けてみたら?というような提案もすることが出来るでしょう。

一方、母は「女がそんな働くなんて信じられない。真剣に悩んでてダサい。」と言うばかりで前向きなアドバイスをくれることはありませんでした。

そういう隠れた支援のある子どもとない子ども、その差は大きいと思います。

大学進学に必要なこと

大学に行くには「学力」「高校の環境」「親の経済力」「親や周囲の理解」が必要であり、どれかが欠けていると途端に大学進学は困難になります。

私の場合は、高校のほぼ全員が大学を目指す状況で、親も大学進学について理解はありました。

ただただ「親の経済力」が絶望的な水準であって、そのために苦労はしたのだけど、お金がないだけなので文化的に障害があった人よりは幾分か楽だったのかもしれません。

加速する教育熱への反発

公教育への信頼が落ちていることへの裏返しとして、教育費の増加、中学受験ブームが来ているように思います。

我が家も中学から私立にいかせられる程度の経済力はあるのかもしれませんが、私の心の中に親の経済力で突破していく風潮への反発みたいなものがあり、なんだかこの状況を受け入れられずにいます。

家庭環境や経済力といった子供の努力ではどうにも出来ない部分で、格差がついていくこの風潮がとても憎らしいのです。

教育は全ての子どもに等しく提供されて、良い人生を歩むための足掛かりであるべきものなのに、資源を持っている子にはより提供され、持っていない子はその機会を得ることのないまま終わるとはあまりに不平等だと感じます。

この程度の人間にしかなれなかったのは、自分のせいなので言い訳する気もないですが、「もし普通に働くお父さんがいたら、もし母親が働くことにもう少し前向きであったら、自分のやりたいことを素直に口に出せる環境だったら…」と考えることはあります。

中学も高校も体育以外はオール5だったから、もし親が教育熱心で鉄緑会にでも入れられていれば、東大に入れていたのかな、とかね。

さいごに

本当の「天才」というのはどんな環境にいても見つかるんじゃないかと思います。

しかし、普通の子はどのような家庭に生まれたかによって、運命が変わりすぎる。

資本主義社会では教育格差は当然というのも分かりますが、たまたま小学校受験率9割くらいの幼稚園に通い、その後の極貧生活を経て、再び恵まれた育ちの人が多い大学に通い、教育環境の両極端を見てきた身としては、その当然の格差に目をつぶりたくないのです。

われらの子どもを読んで感じたのは、「自分の子ども」の意識だけではなく、「われらの子ども」の意識を持って貧しい環境に手を差し伸べてくれる大人の大切さ。

自分に出来ることとして、結婚して以来、母校の奨学金への寄付を続けてきましたが(公立高校の学費が全額免除になってもそれでも苦しい水準の家庭というのは存在するのです、私もこの奨学金に大学進学を助けてもらった)、もっと周りの子どもに手をさしのべる大人が増えて欲しいなと思い、このブログを書きました。

支援の仕方は別にお金でなくてもいい。大学進学の背中を押してあげるとか、仕事の話を聞かせてあげるとか、そんな小さなことでもいいのです。

どの子も当たり前に与えられていると思っているものすら、持っていない子も多いのですから。

自分語りがまた多くなってしまいましたが、自分自身が育った環境以外への理解の一助になればと思います。

「われらのこども」、分厚いですが読みやすい本なので、もし関心があれば年末年始の休暇にでも手に取ってみて下さい。

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